読書は好きですが、詩集はあまり読みません。

本棚にあるのは中原中也と江國香織の詩集くらいです。

今回は私の好きな詩人、中原中也について書きます。

中原中也という名前はご存じなくても、このフレーズを聞いたことがあるのではないでしょうか。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる*1

※引用している詩の全文は脚注に記しています。

※中原中也詩集は青空文庫にて閲覧できます。




1.『湖上』との邂逅

2009年に廃刊となった『REAL SIMPLE』という雑誌がありました。

日経BP社から発刊されていた、その名の通りシンプルで文字数の少ない、余白が心地よいライフスタイル誌でした。

その中の1ページに、湖上に浮かぶ月が描かれたイラストと中原中也の詩が掲載されていました。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

『湖上』という詩の一部*2でしたが、なんと綺麗な日本語かと思いました。

それが、私が初めて中原中也を知るきっかけでした。

2.中原中也は中二病の人にウケる?

リズム感の良い日本語でありながら、「死」や「喪失」を扱っている詩が多くあるため、中二病ウケする詩人でもあると思います。

ほんに別れたあのをんな、
いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

『雪の宵』(筆者抜粋)*3

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達せんだつてよ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』

『秋』(筆者抜粋)*4

NHKの番組『100分で名著』で中原中也が取り上げられたときには、『「死」を「詩」にする』というタイトルがつけられていました。

しかし、中原中也のもつ喪失感は、

  • 親友に同棲中の彼女を奪われた挙げ句、その彼女が親友の家に引っ越していくときの手伝いをする
  • 自分の子どもが幼くして亡くなってしまう

という重たい出来事によるもので、ファッションメンヘラでも中二病でもなく、腹の底から発せられる喪失感を謳ったものであるように思います。

ちなみに、前述の番組『100分で名著』では、太宰治と中原中也に交流があったためか、太宰治の娘さんが中原中也について解説されています。

www.nhk.or.jp

3.中原中也の詩集は2冊しか発刊されていない

中原中也自身が発刊した詩集『山羊の歌』

中原中也の死後に友人らによって発刊された詩集『在りし日の歌』

この2冊しかありません。

中原中也の名を冠した詩集はたった2冊しかないにもかかわらず、国語の教科書に載り、NHKでも取り上げられ、今なお研究*5がなされています。

また、中原中也の関連本も多く発刊されており、近年では文豪が登場人物となっている人気コミック『文豪ストレイドッグス』にも中原中也が登場しています。(ちなみに、必殺技は「汚れつちまつた悲しみに」。マフィアの幹部という役柄です。)

死後約80年経ってもなお、忘れられることなく、多くの人に読まれている詩人です。

4.中原中也のココが好き

『また来ん春…』

また来(こ)ん春と人は云(い)う しかし私は辛いのだ
春が来たって何になろ あの子が返って来るじゃない

おもえば今年の五月には おまえを抱いて動物園
象を見せても猫(にゃあ)といい 

鳥を見せても猫(にゃあ)だった

最後に見せた鹿だけは 角によっぽど惹かれてか
何とも云わず 眺めてた

ほんにおまえもあの時は 此(こ)の世の光のただ中に
立って眺めていたっけが……

猫に(にゃあ)とふりがなをふってあるんです。天才では・・・?

前述のとおり、中原中也は幼い我が子を亡くしています。

まだ喋りはじめて間もない我が子を連れて行った動物園で、動物を指さしては(にゃあ)と言い、鹿には角に惹かれたのか(にゃあ)とは言わずにじっと見つめていた。

春はまた来ると人はいうけれど、春が来たからと言って我が子がかえってくるわけではないじゃないか。

・・・という話を綺麗な日本語でこんなにも端正に綴られている作品です。

天才では・・・?

『春日狂想』

   1

愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。

愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。

けれどもそれでも、業(ごう)(?)が深くて、
なおもながらうことともなったら、

奉仕(ほうし)の気持に、なることなんです。

奉仕の気持に、なることなんです。

愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから、

もはやどうにも、ならぬのですから、

そのもののために、そのもののために、

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

奉仕の気持に、ならなきゃあならない。

   2

奉仕の気持になりはなったが、さて格別の、ことも出来ない。

そこで以前(せん)より、本なら熟読。
そこで以前(せん)より、人には丁寧。

 

  (中略)

参詣人等もぞろぞろ歩き、わたしは、なんにも腹が立たない。

    《まことに人生、一瞬の夢、
    ゴム風船の、美しさかな。》

空に昇って、光って、消えて――

やあ、今日は、御機嫌(ごきげん)いかが。

久しぶりだね、その後どうです。
そこらの何処(どこ)かで、お茶でも飲みましょ。

  (中略)

 

外国(あっち)に行ったら、たよりを下さい。
あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

馬車も通れば、電車も通る。
まことに人生、花嫁御寮(はなよめごりょう)。

まぶしく、美(は)しく、はた俯(うつむ)いて、
話をさせたら、でもうんざりか?

それでも心をポーッとさせる、
まことに、人生、花嫁御寮。

   3

ではみなさん、
喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手(あくしゅ)をしましょう。

つまり、我等(われら)に欠けてるものは、
実直(じっちょく)なんぞと、心得(こころえ)まして。

ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
テンポ正しく、握手をしましょう。

ちょっと長いのでなくなく一部中略しています。テンポがよくてサラサラと読めると想うので、本当は全部読んで欲しい・・・。

1では、一行目から「自殺」という単語が登場しますが、愛する人が死んだあとは奉仕の気持ちになることなんだと説いています。中原中也自身はダダイズムに傾倒しており、フランス文学を嗜んでいたはずなのでいくらかキリスト教の影響も受けているのかも知れません。*6

2では、奉仕の気持ちと言っても特別なことはできないから、「本なら熟読、人には丁寧」と言います。このような流れが続く中、不意に挟まれる括弧付きの2行による場面の転換。

 《まことに人生、一瞬の夢、
     ゴム風船の、美しさかな。》

・・・天才では?

儚さをゴム風船にたくしつつ、「空に昇って、光って、消え」たあとは、また先程の場面に戻っていきます。この流れるような場面の転換。・・・天才では?

そして3では、感情的に、ある意味冷静に、小気味よい文章が並びます。

ではみなさん、喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
テンポ正しく、握手(あくしゅ)をしましょう。

つまり、我等(われら)に欠けてるものは、
実直(じっちょく)なんぞと、心得(こころえ)まして。

・・・天才では?(語彙力)

『一つのメルヘン』

秋の夜(よ)は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

取り立ててどこが良いと言うよりも、全体を通しての雰囲気についてですが、

私のイメージでは灰色がかったパステルカラーなイメージです。

この文章を今時分ならともかくウン十年も前に男性が書いているというのはちょっと驚きを感じます。・・・天才では?

5.おわりに

中原中也にちょっとでも興味を持っていただけたら幸いです。

中原中也は山口県のイイトコのぼっちゃんで、実家は温泉旅館を営んでいました。その温泉旅館は今も経営しているのですが、昨年、経営破綻をしています。ただ、他の会社に買収されて再建予定とのことなので、温泉旅館が残っているうちに一度訪れたいと思っています。

*1:『汚れつちまつた悲しみに…』

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘かはごろも
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠けだいのうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気おぢけづき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

 

*2:『湖上』

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

沖に出たらば暗いでせう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音は
昵懇(ちか)しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。

あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

*3:

雪の宵

青いソフトに降る雪は
過ぎしその手か囁ささやきか  白秋

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙けむ吐いて、
赤い火の粉も刎はね上る。

今夜み空はまつ暗で、
暗い空から降る雪は……

ほんに別れたあのをんな、
いまごろどうしてゐるのやら。

ほんにわかれたあのをんな、
いまに帰つてくるのやら

徐しづかに私は酒のんで
悔と悔とに身もそぞろ。

しづかにしづかに酒のんで
いとしおもひにそそらるる……

ホテルの屋根に降る雪は
過ぎしその手か、囁きか

ふかふか煙突煙吐いて
赤い火の粉も刎ね上る。

 

*4:

昨日まで燃えてゐた野が
今日茫然として、曇つた空の下もとにつづく。
一雨毎に秋になるのだ、と人は云ふ
秋蝉は、もはやかしこに鳴いてゐる、
草の中の、ひともとの木の中に。

僕は煙草を喫ふ。その煙が
澱よどんだ空気の中をくねりながら昇る。
地平線はみつめようにもみつめられない
陽炎かげろふの亡霊達が起たつたり坐つたりしてゐるので、
――僕は蹲しやがんでしまふ。

鈍い金色を帯びて、空は曇つてゐる、――相変らずだ、――
とても高いので、僕は俯うつむいてしまふ。
僕は倦怠を観念して生きてゐるのだよ、
煙草の味が三通りくらゐにする。
死ももう、とほくはないのかもしれない……

『それではさよならといつて、
めうに真鍮しんちゆうの光沢かなんぞのやうな笑ゑみを湛たたへて彼奴あいつは、
あのドアの所を立ち去つたのだつたあね。
あの笑ひがどうも、生きてる者のやうぢやあなかつたあね。
彼奴の目は、沼の水が澄んだ時かなんかのやうな色をしていたあね。
話してる時、ほかのことを考へてゐるやうだつたあね。
短く切つて、物を云ふくせがあつたあね。
つまらない事を、細かく覚えていたりしたあね。』

『ええさうよ。――死ぬつてことが分かつてゐたのだわ?
星をみてると、星が僕になるんだなんて笑つてたわよ、たつた先達せんだつてよ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
たつた先達よ、自分の下駄を、これあどうしても僕のぢやないつていふのよ。』

草がちつともゆれなかつたのよ、
その上を蝶々がとんでゐたのよ。
浴衣ゆかたを着て、あの人縁側に立つてそれを見てるのよ。
あたしこつちからあの人の様子 見てたわよ。
あの人ジッと見てるのよ、黄色い蝶々を。
お豆腐屋の笛が方々で聞えてゐたわ、
あの電信柱が、夕空にクッキリしてて、
――僕、つてあの人あたしの方を振向くのよ、
昨日三十貫くらゐある石をコジ起しちやつた、つてのよ。
――まあどうして、どこで?つてあたし訊きいたのよ。
するとね、あの人あたしの目をジッとみるのよ、
怒つてるやうなのよ、まあ……あたし怖かつたわ。

死ぬまへつてへんなものねえ……

 

*5:特に『含羞(はぢらい)』という作品における「あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき」の部分についての解釈が議論されているようです。

*6:中原中也を読み解く中ではあまり宗教的な話は出てきません。死ぬことへの言及が多いため「輪廻転生」などの話もでてきそうですがそういった言及も特にありません。それよりもダダイズムなどの一斉を風靡した文学やその姿勢に影響を受けていたように思います。




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